言葉ではなく、語ってくる。 


こんな感じで水が湧いています。
触ってみるとかなり冷たい。 


山頂からは、北登城道を通って下りました。
こちらは階段(?)等も一応整備されていて、比較的ゆるやかな道が続いています。
ただ、このときは何しろ地面がぬかるんでいたので、滑る足元に要注意でした。

その途中に、「景虎清水」なるものがありました。


「 秋草や 兵どもが 夢のあと 」 


山頂部分からは、日本海も望むことができます。(奥の青い水平線)

いまさらですが、鮫ヶ尾城の略歴を。

この城は、上杉謙信の時代、信濃の武田に対し、春日山へと続く平地の入り口の要所として整備・拡大されたと考えられています。とくに川中島の戦いの影響が大きかったようです。

そして謙信公の死後、養子の上杉三郎景虎と上杉景勝の間で家督争いが勃発。この御館の乱で、春日山城・府内を追われた景虎が立て籠もったのが、鮫ヶ尾城でした。景虎はもともと北条氏康の子であり、上杉家には人質として来ていたため、鮫が尾城経由で関東に逃れようとしていたと言われています。しかし、景虎は景勝軍の総攻撃に耐えることができず、天正7年(1579年)3月24日昼過ぎ、鮫が尾城は落城、景虎は自害しました(享年は26歳といわれる)。

その時から近代に至るまで、鮫が尾城跡は時の移ろいの中で深く山林に埋もれることとなったのです。

触れられなかったことに、乱の爪跡の深さを想像してよいかは分かりませんが、しかしそのおかげで現代の私たちが、当時の空気をよりよく感じることができるというのは、嬉しくも皮肉なように思えてしまいます。



本丸跡の隣には、堀切を挟んで米蔵跡があります。

鮫ヶ尾城は国指定史跡ですが、指定されたのはなんと平成20年7月で、つい最近なんですよね。
そもそも曲輪の発掘調査がされたのが平成17年〜平成19年にかけてですから、今まさに研究が進められているって感じなのかな。
先日も、例の立ノ内で発掘調査がされたようですし、これから新しい事実が発見される可能性は十分あると思います。楽しみですね。



本丸跡から望む春日山。(真ん中左寄りの白い山)
景虎が最期に見た景色。



二の丸から引き返し、さらに一段高い曲輪に登ると、いよいよ通称本丸跡です!
いやー長かった。ここまで登るのも一苦労でしたが、記事も一苦労。笑
通称ってことは推定なんでしょうが、この地で景虎公が自害したのだと思うと、やはり万感の想いです。
ちょうど人がいなくて独り占め状態だったので余計こみあげてきましたね。
 
 
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