
山頂部分からは、日本海も望むことができます。(奥の青い水平線)
いまさらですが、鮫ヶ尾城の略歴を。
この城は、上杉謙信の時代、信濃の武田に対し、春日山へと続く平地の入り口の要所として整備・拡大されたと考えられています。とくに川中島の戦いの影響が大きかったようです。
そして謙信公の死後、養子の上杉三郎景虎と上杉景勝の間で家督争いが勃発。この御館の乱で、春日山城・府内を追われた景虎が立て籠もったのが、鮫ヶ尾城でした。景虎はもともと北条氏康の子であり、上杉家には人質として来ていたため、鮫が尾城経由で関東に逃れようとしていたと言われています。しかし、景虎は景勝軍の総攻撃に耐えることができず、天正7年(1579年)3月24日昼過ぎ、鮫が尾城は落城、景虎は自害しました(享年は26歳といわれる)。
その時から近代に至るまで、鮫が尾城跡は時の移ろいの中で深く山林に埋もれることとなったのです。
触れられなかったことに、乱の爪跡の深さを想像してよいかは分かりませんが、しかしそのおかげで現代の私たちが、当時の空気をよりよく感じることができるというのは、嬉しくも皮肉なように思えてしまいます。